昭和44年01月27日 朝の御理解
御理解第12節
「神に会おうと思もえば、にわのロを外に出て見よ。空が神、下が神。」
「神に会おうと思もえば、にわのロを外に出て見よ。空が神、下が神。」教祖様のいわゆる御神観です。神様は教祖の神様は、自分の拝んでおられる神様を、その対象を天地においておられる、金光様のあなた達のおがみょる神様はどげな神様のと、よくいわれますね。ですからいわゆる教祖の神が、天地金の神と仰るのだから天地である。神に逢いたいと思えば、庭の口を外に出て見よ、空が神下が神と教えて下さる 。そういう神様だとまぁ説明をしたり、言うただけでは「ほお」と言うただけです。
もう神様とそりゃ空が神であったり、空がそれがそのまま。私共はねギリギリのところは、本当にあのうこういう実感が伴のうて来る信心。それは説明が出来ない、説明は出来ないけれども、例えば空を仰ぎ地をその地に平伏す時にですね。そこから神様の感動といつたようなものが、伝わつて来るおかげを戴かなければならん。教租の神様方から、この方が祈るところ天地の、天地金の神と一心なり、いうふうに言っておられますね。もう一心その天地と同んなじ心にとももう言うとられます。
だからお互いならこりゃ私の場合をいうてもいい。この方大坪総一郎が祈るところね、天地金乃神と一心なりにならなければいけんのです。皆さんの場合でもそう。しみしめきちこの方が祈るところ、天地金の神と一心なるということにならにゃいけんのです。もうそこは理屈じゃない。私が毎朝ここえ3時半に出て参ります、一番にここの神苑ですねぇここの天地書附の配石してありますこの庭は、まぁ見る庭でもなからなければ、あのう体裁に造ってあるのではない。ここは私の拝み所。天地の遥拝するところ。
いうなら私の心が天地に通うところ。この回廊に出てから、すっとこう柏手しますとね、もう本当に私しゃ天地感動がここに起こって来る、私の心に。天地が生きてござる、生きてござるという実感がですね.いわゆるそのう夜やら拝ませて貰う、そのまっ暗い大地を拝ませて戴く時にです。私の心にその天地の心が私の心に通うて来る、感動です。ですからそこに初めて、「神に会いたいと思えば庭の口に出てみよ、空が神、下が神」という事になるのです。
そこでなら私共は、そのう天地が神様だというても余りにも漠然ですから、先ずそのう天地が生きてござるということね、天地がこのう生きてござるから、地球上の全ての地球上だけではありませんよね、宇宙でしようね。まぁそれはとてまぁ人間が住んでおる所のこの地上の縁ですね、天地が枯れたら一切が枯れるんです。天地の生きた働きというものがなかったらですね、ものを育み育てる力が第一なくなるです。天地が死んでござる、たら例えばどういう素晴らしい良い花の咲く種を蒔いても。
それは花に咲かせる事も芽も出らないです。それは天地が生きてござる印なんです。そこに天地が生き通しに生きてござるという事。天地のその心の底にはね。それこそたぎる様なものがある。生きとし生きるものの上に思いをはせて下さる。まして人間万物の霊長といわれる、万物いわゆる霊長である人間の幸せの、おかげの受けれれる事の為に大変心をいつもとって下さる。それが私はあのう地を掘れば下からたいげんのなら湯が出て来る。大阿蘇のあの噴火口に立ってみてそげん思います。
成程天地が生きてござるなぁ。天地が躍動してござる。あぁいうものがこの下に流れておる、天地の心の中に。だからその天地が生きてござるという事と同時に、その生きた天地が私共とどういう関わり合いになっておるのか、どういう関係があるのか。そこを教祖は親神子神と氏子と言う風に説いておられます。それを先日私は親神子神であると同時にです、恋愛感情と言う様なものでも受け取られましたすね正直言いますと。とにかくいきた繋がりがあるということ。
その天地との繋がりがありというものを、私共が分からして貰う。それは氏子の上に思いを掛けまた現わして下さる、一つの準備といった様なものが天地の中にはいっつもあるのです。いわば縋れば助けてやると詫びれば許してやると、一心に願えばそれが叶えられるという。先日は天地のお月次祭のお祝詞の下書きを、現在の親先生がこのう便箋に書いて下さってある。もう年号やらこう綺麗に書いてしかもそうして、仮名遣いがしてある。普通では一日の月次祭を祈願祭、十日をいきがみ金光祭。
十八ここでは準備は17日いですけれども。十八日ここでは十八日を報徳祭いわゆる、二代金光様言うなら、三代金光様のまぁお二柱のにお礼のお祭、二十二年と言うですけどここは二十三年、そのお祭を天地の親神様のお祭と、こうここしてございます。私はそれを四回の月次祭にその全てが私のお祭の中にはいつも内容があるのです。こりゃもうそれぞれの生き方ですれどね。教団ではやはりそう言う風なちとがありますね。今日は金光様の話、今日は天地金乃神様の話。
私はそれの総てを月次祭たんべんに思って居りますけれども。だからお祝詞の中にも自然あのそういう風に、天地の親神様も同時に親神様を讃えるところのお祭、報徳祭はいわゆる金光様、二代様三代様をここで讃えるというような、このあとのそばが讃えてございます。ちょっと読んでみましょうね。
「かしこかれど大親神の神頼みのまにまに、わが教祖の神のすすきがき給い始め給いし、生神金光大神取次の道、世々を重ねていや広にいや遠に、広ぐり行く今日の御栄えになりし、その大本に揺るぎなき大き力を培い、汲めども尽きぬ御徳を讃えて。人々の立ち行く立ち栄える働きを現わし給いて本教とね、わが道のみさおしくごとく、みさおしの神と仰ぎ慕われたまい、いまし御神達をしのび奉りて、四季ごとのいやみごろがみ讃え奉らんと、今日の良き日に報徳祭仕え奉らんと。」
いうここに書いてございますね。天地の親神様からの神頼みのまにまに、教祖の神様がね開き給い始め給いし、それがお道の信心なんですね。その天地の働きをです、教祖の神様の上にお現わせにならまでにはね、じゅまんなさらんじゃけんもう大変な事であった。この氏子と例えば神様が頼まれる氏子が、まぁ何千年何億年昔からそのう、この氏子に頼むというような氏子が、今まで克ってみた事がなかった。此の方の様なっ実意丁寧神信心のものは見た事はなかった。
此の方ならばと神様がいわばしはんねを立てられた。そこに様々な修行難儀もあったけれども、段々実意丁寧の言わば信心に現れなさったのが、この天地の神様なんです。そしてそこにはいわゆる立教神伝ですね、世の中に難儀な氏子がいとも取次ぎ助けてやってくれと言う、神頼みのまにまにお道の信心が始めたれた。その教祖の神様のお後を受けられて、二代金光様が三代金光様がそれを揺ぎ無き大きな力を、ちちかいくうでも尽きぬみその子讃えて、人の立ち行く立ち栄える働きを現わされたとここに書いてある。
そこで私共がここで神に会おうと思えば、庭の口を出て見よ空が神下が神とおっしゃる、そのう出て見てね私共がそこに神の感動がここに直接ここへ流れて来る。直流してくる。そういうおかげを頂くまでに、まぁ天地の心を知らなければならない。神の心を知らなければならない。天地の心を心として私共日常生活に表して行かなければならん。そこからいよいよ神様が身近のものに感じられて来る様になるのですけれども。ここで私共がね分からして頂かなければならない事は。
もうここに既に天地の働きをね現わしておられる方、それがいわば教祖様のであった二代様であった、私共の場合は一番身近に感じておった、三代金光様であったね。金光様のいわゆるお力御徳にによってです、天地のその会いたい私共が会いたいと、もう天地の神様の働きを目の当たりに見せて下さった。それが金光様。ですから結局私共はどういう事になるかと言うと、天地もさることながら先ずその金光様の御信心を頂く、金光様のお徳にお縋りをするということが、一番天地を知る事になり。
天地の心が分かる事になりね。天地の親神様のおかげを金光大神の取次ぎによって、受ける事が出来るいうのが金光教の、いわばおかげのシステムなんですね。そういう一つのいわゆる約束事というものがです、そこで私共は庭の出て見て神様とも思いきらん。実感として。空を仰いでも神様たぁ思い切らん。思いきらんけれども金光大神の御取次ぎを頂く事によって、金光大神その取次ぎの道の働きがですね、どういう事かと言うと、取次ぎの道の働きと言うのはね。
そういう天地の徳を現わす事出来なさる力、すこし理屈っぽくならましたかね。まぁそれをまぁだもっともっと身近に言うならばですね、秋永先生が私のその始めの頃、私の信心をまぁ一目惚れしたんですね、でまぁ段々それこそまぁ何て言うでしょうかね、いやの所が見えて来たり、もう神様にゃいろいろと信心のまぁジレンマもあったでしょうけれどもです。まぁ細々ながら曲がりなりにも私達のじじゅう信心が、ここ二十年続いて来た。それはどこにね私のどこに惚れ込んだかと言うとね。
私がその時ささやかながらでもです、天地の働きを現わしておる秘結を、私しゃある場合にゃ目撃しあるにゃそれを、本気で素直に見ろうとする心からだったと思うです。まぁだ私があの修行時代に破れ、破れ鞄下げて歩いておった時代、これはなら現地の児山先生だっても同んじだったのです。ただですね霊徳を現わすとね、何と言うかね病気が治っるとか。真理眼の様な事が出来よるとか、そういう私に働きといった様なものではなくてね。この人は確かに天地の働きをですね。
そこにささやかながら現して行ける人だという極めが出来たんです。当時私の私の周囲に起きた事やら問題やらがですね、もうそれは実にもう実にそのう、まぁ克明なものであった。いえば微に入り細に亘ってのものであった。なるほど大坪総一郎一人の為に、天地が動いてござると思わにゃおれない様な事が、次々起こって来た。そういう事実をね目の当たりにした時です。秋永先生がその当時どういう事を言っておるかというとです、親鸞と法然の子弟関係のそれを例にとって話しております。
当時新興宗教として非常に帰依者も多かったが、それに対するところのひつりを希望する人ね、又はそれを邪教扱いする人沢山あった中にです、親鸞がどう言うておるかと言うとです。良い師匠し法然の言われる事がですね、よし地獄道に繋がってもさらさら厭わない。師匠法然が言われる事、それは周囲には随分それを、様々な見方をした人があった中にです。見極めるところを見極めた、そうしてこの師匠がいう事の為ならばです、それが由地獄道に繋がっておってもさらさら悔る事はないというのです。
秋永先生がいうちょうの恐れに似た事でやっぱあった。いわゆる親先生任せです。親先生が言われる事を、そしてそれがどういうことになっても、厭わないと言う見方。私はそこにですねお道の信心はあり、いや合楽の信心はあると思うです。そこに私は身近になるほど天地がひきょうさんならと、なるほど天地の懐の中にゃ私共があるんだぁと。そういう大きな働きをです、そのその人大坪総一郎の取次ぎによって、そこに見える事聞く事ね現れて来る事の中に、それを確かめ確かめして。
私は今日までの信心がこう続いておるとこう思うんです。例えば世間に毒食わば皿までと言った様な事がありますよね。けれどもそういうものではないです、もうとにかくまぁ腐れ縁大坪総一郎というのとこで縁が出来たっちゃけん、まぁしかしここ何十年間続いて来たっちゃから、もう破れかぶれもうとにかく、まぁあれが行く所へ付いて行こうといったようなものじゃなくてですね。意志と天地との繋がりと言うものを見極め、意志と天地のその働き表して行っておるその姿にですね。
この道を究めてさえ行けばね、まぁ言うならば、これを自分の生き方をもっと改めてさえ行けば、もっと磨いてさえ行けば、天地の心にお心としての信心が出来さえすれば、おかげを受けられるという確信をもってですね、それをいよいよ深めていくきたのが、秋永先生がここ二十年間の信心の姿であるというふうに思うです。ここではおにゅうとうの中には二代金光様三代金光様の御徳によってです。この様に立ち栄、この様に天地の働きを働きとして、現わしておいでられた。
お方のみとこうさん讃えるお祭がいわば十八日のお祭であると、これにこの後にしてございます様にね、その天地の働きを現わす人現わしておる人、目の当たりに見せてくれる人、そこに私はこりゃおかげが受けられんのはね、この人はこの世のおかげを受けて天地の働きを現しておるのに、自分の上に現れないのは、これは自分の生き方あり方が、又間違いなんだぞとこう、そこをたどらして頂きながら進めていく信心。一番私共のいわば信心を極めて行くその気持ちと言うか、近道というかそれはね。
今にも申します様に、そこに天地の働きを現わして行っておる人の姿というものに、神習わして頂くと言う事が、一番近道であるということになります。だから皆さんの場合でもですね、ささやかでもですなら私の周囲にいろいろ起きて来る、現れて来るそのことがらがです、はぁなるほど天ん地との繋がりがある証拠だなと、言う様なものおを見極めて下さらなければです、この方が言う所へ着いて行けない。なるほど親先生任せにさえなっとりゃおかげが受けれれるいう、確信が生まれてこない。
自分の都合、自分の勝手、ここまでは任したけれども、これからが任せられないと言った様な事では、やはりおかげがそれだけ。任せると言うたらよしそれが玉堂二に繋がっておってもという、私は所をですねどうでも頂いて欲しいと、でないとそのう大きい力と言うものがです、大きい力になって現れて来ない。ほんな部分的な目先目先のおかげに留まってしまう。そこに私は日々の信心の稽古の焦点と言うものをですね。おいてお互い信心の稽古をして行かなきゃならん。
昨日の朝の御理解の中にねいわゆる本当な事、これは私がね教祖の神様の御信心、二代様三代様の信心のお取次ぎから、いわゆる初代しんから先生方のお徳にお縋りさせ知多抱いて、そして「これはこれが本当だという事を極めた事」その本当な事を皆さんはなら十何年間ですかね、又は十年の人もあれば読む人もあろうけれども。それをここでは聞いて見えられたまたそれを又稽古しにみえられた。ところがその本当な事と分かりながら、本当な事が自分のものに成っていない事に、気付かして頂く事の多いのに驚く。
そこで昨日はここのところに焦点を置いてとね、育てるという事を時に焦点として年付きのお話を申し上げたですね。私昨日いろいろ体験さして貰いました。本当にあのうもう自分が育てるとじゃない、自分が育てるとじゃない神様のお育て頂かなきゃ出来るこっちゃないと。それを自分が育てようとするところに、そこにか網様の働きを頂くのを邪魔になる。その言うならここにもですなら私の信心にある意味合いにおいて、まぁ全服的にですね私の信心を信じてもおるけれども。
けれども親先生の言わっしゃる通りには出来ないと言う様な、人達の上にもう私はもういつっも本当にはがいい事だなぁ、おしい事だなぁとこう思うんですね。まぁここで言うなら菊栄会の連中がそうですね、私の信心にこれ程ある意味合いでは惚れ込んでおりながらね、いうならばこれ惚れ込めまれながらです、そして最後の所になってくると最後の所に手を出させない。
そのはがいさとかジレンマと言うものがです、どうしてそこを思うておるけれども、一応あすこんとこに焦点を置いとるです。はぁ自分な幾ら思うたって同し事、神様から思うてもらわなければ、神様がお育て下さらなきゃどうかと思う。特になら書いてのそりゃ今崎さんなんかは、もうこりゃ本当にあのうこれをとってあれをつけますようですけれども。私の信心に例えば帰依しておる事においても、まぁまぁ第一人者であると私は信じておる、私もこのひとが信心をとこうやはり思うておる。
だからその思いが強ければ強いだけ、やはりその思いが強いわけ、せっかくこれだけの人柄と言うかね信心も頂きながら、これから先を進めて行けんという事はどうしたはがいいこっちゃろかとこう思う。そこにそのうあの人を育てようとする私の働きが、様々な形で現れて来る。それで昨日もそれを痛感した。はぁこういう思いをしなければいけない。私が育てるってどうして育てるっ事が出来るもんか。という事にいよいよ昨日はその仕事にほじて頂いたらですね。
昨日は夕べ遅うに土井の共励会から、皆んなここさん引き揚げて帰って来た。正義さんも一緒に行っとった。あらあんた今日おかげ頂いとったねって言ったら、と言いう事は私これまでおかげ頂いたっとこう思うんです。この頃ですね自分方の共励会の時にゃ皆んなに来て貰うてから、よその共励会のとにゃ行かんも、よその共励会とはそのう久富繁雄さんのとこの共励会にはいかんですこの頃。例えば本当にそれだけでも義理を欠く、まぁあの人のこっちゃからそのう行かれんからと言うて。
もうお神酒の一本もそのう昼の内にゃ持って行っとるけど共励会にゃ出らない。まぁそう言う事に私しゃはがいい事だなぁとこう思うんです。そのうそれがやっぱりあの人の働きの上にね、神様の働きの上にあたくしの思いが邪魔をして居った様な気がする。昨日その思いをとらしてしまったら、ちょっと昨日は共励会に行ってる。そしてやっぱみんなと一緒にここへお礼に出て来ております。昨日はその事に出てございません、子供たちの上にもそうで、そんなものを感じたんですけれども。
もう自分が育てるという様な考え方、まぁ間違いだという事はわかっちゃおる、神様が育てなさるとという事は本当であるという事が分っちゃおるけれども、自分が育てよる様なものがいかに邪魔をするかという事を体験。そういう体験の中からですね、神様の心をいよいよ身近に感ずる事が出来る。皆さんも昨日一日その事に取り組まれたら、まぁささやかながらでも、そのそこの体験を頂かれたのだろうと思うけどもね、そこに例えば私のこれが本当だというておる事が。
いよいよ自分のものにすることに務める就業をさして頂くところから、分からして貰うのはいよいよ天地の働きである。神に会おうと思えばです、本当に神様に会おうと思えば面会をしようと思えば、いつも神様を目の当たりに感じさして頂こうと思えば、先ず教会に出て来ようという事になるのです。そしてそこにですね、その天地の働きを現わしておる人の姿に触れたが一番という事になります。それを私しゃこのお祝詞の中から二代様三代様の事頂いたけれどもね。
それをもっといわば身近に頂く為に私の例を取りました。私のささやかながらでも天地がこれが天地の働きと言わずにおられない。例えばこの御造営の事だって、このお庭が出来た御造園の事だって。天地の協力協力じゃない天地の働き、働きを頂かなければ出来る事では無い事実をです、実際に御用頂きながら目の当たりに見たり感じたりしておる、そういう働きを現わしておるのは誰かと言うと、大坪総一郎の信心だと。
まぁ実際はそうじゃないですね。教祖様の御信心初代ね私の上に働いて下さる神様達の働きですけれども。まぁ分かりやすく言うならばですね。私がここで私の信心で現しておるこの信心の姿を、皆さんがご覧になる事がですね、神様の姿を見る事になる。そこでなら私共にその祈りを受けて、そういうおかげが受けられる事を確信しもって、日々の信心の稽古しなければならない。
ただ不思議な力不思議なはたらき、いわゆる御利益という事だけに焦点を置かずにね、その天地を自由になさると言うかね。その天地の働きを働きとして現しておる信心。または人の姿と言うものはです、ひとつの手本にしての信心。そこにまた自分の上に天地が中になって下さるから。おかげもまた頂かれる。そういうおかげを私は目指さして貰う事が、金光様の御信心だとこう思うのです。
そしてそこからです一番なら私が、もしこういう天地の働きを現わしておるとするならば、その働きを現わしておるそこんところに、一つ皆さんが着眼して間違いない、これだと。この信心に着いて行けば良い。そこからです親先生任せという信心が生まれて来る。任せると言うたらもう本当に最後の最後のものまで、任せる気にならなけりゃだめ。そこからしか本当のもん、言わば私に現れておる神様は現れなさらん。
それを体験さして貰う事がそれを頂かして貰う事がね、私は天地の徳の受ける事にはなると私は思うのです。どうぞ私共が実感して、本当に庭の口に出て見たら本当にそこに神様を感じる。なるほど空が神下が神と仰せられるが、本当にその天地の心が感動がです。これに沸いて来る、これに伝わって来る様なおかげを頂く為に、今日は私は申しました様な所をです、頂かして貰わんければならんんと思うですね。
どうぞ。